学園情報125周年の歴史(学園の沿革)

百年史

第1章 工手学校の創立

文明開化と学校教育

●勃興する殖産興業

 ペリー提督率いる4隻の黒船によって、鎖国の眠りを破られたわが国が、幕末の動乱を経て近代国家としてスタートを切ったのは、明治元年(1868)のことである。
このころ、蒸気機関の発明に端を発した産業革命は、それまでの経済、産業の構造を一変させ、次世紀の機械文明の礎となる新しい動力機関、内燃機関の実用化の段階を迎えようとしていた。

 すなわち、大西洋ではフルトンの汽船がヨーロッパと新大陸アメリカを往来し、ドイツではルノアールの内燃機関が実用化し、ビュルダンの水力タービンが回転を始めていた。産業革命に触発された技術革新が、産業界の広範な領域で花開きかけた時期に、わが国は開国したのである。

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 近代国家としての明治政府はまず、廃藩置県、地租改正などで国家の行政組織や経済基盤を固めるとともに、先進の欧米諸国に追いつくべく殖産事業を各地に興した。

 明治3年の富岡模範製糸場、洋式紡績の堺紡績所、同10年の群馬県新町の屑糸繭紡績所、12年の千住製絨所などがそれにあたる。また、横須賀、長崎、石川島、兵庫に造船所が建設され、板橋、目黒の火薬製造所、品川硝子製造所、政府御用の製紙会社(後の王子製紙株式会社)、東京電灯株式会社などが次々に設立された。

 この時期忘れてならないのは、近代産業のインフラストラクチャーともいうべき鉄道の開通である。明治5年、新橋〜横浜間に鉄道が開通し、以後、東海道、山陽の各線の建設が行われる。

 民間に資本と技術力がない明治初期は、政府主導による官営工場が産業界をリードしたわけだが、明治10年代の後半から20年代にかけて、官営工場は次々に民間に払い下げられ1)、ここにようやくわが国は、資本主義に立脚した工業国家としての基盤が整うのである。

1)殖産事業の払下げ
  • 明治18年8月、東京瓦斯局を渋沢栄一、大倉喜八郎らに払下げ。10月、東京瓦斯株式会社設立。
  • 明治19年4月、兵庫造船所を川崎正蔵に貸下げ、翌年払下げ。川崎造船所と改称。
  • 明治19年11月、愛知紡績所を篠田道方に払下げ。
  • 明治20年、紋暼製糖所を伊達邦成らに貸下げ、3年後に払下げ。
  • 明治20年6月、長崎造船所を三菱社に払下げ。三菱造船所と改称。
  • 明治20年6月、新町紡績所を三井組に払下げ。
  • 明治21年8月、三池炭鉱を三井組に払下げ。
  • 明治26年9月、富岡製糸場を三井高安に払下げ。
  • 明治29年9月、佐渡、生野両御料鉱山と大阪紡績所を三井合資に払下げ。
 
●富国の基礎に産業教育

 「富国強兵」とは近代国家としてスタートした明治政府が掲げた国家目標であるが、富国とは何か。
江戸時代の主要産業は農業であった。そして、江戸幕府がめざしたものは、いわば「農業立国」である。

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 これに対して明治政府がめざしたものは、まさに「工業立国」である。近代的な工業を興すことで、豊かな国づくりをめざしたのである。そして、欧米列強から自主独立を確保するための軍事的な強国化を図った。

 この目標を達成するために、欠かせないのが教育である。なかでも、産業の担い手となる高度の専門知識と技術を身につけたエンジニアの育成は、急務を要するところであった。

 そこで、政府は欧米から多数の技術者、指導者を雇い入れた。知識と技術をもった人材を直接導入したわけである。

 明治4年(1871)、文部省が設立され、翌5年、「学制」が公布されるが、この年に工部省内に工学寮が設けられた。工学寮は明治10年に工部大学校と改称し、工業技術者を産業界に送り出すことになる。

 19年、政府は「小学校令」「中学校令」「師範学校令」「帝国大学令」を公布。ここにわが国の近代学校制度が整うのであるが、工部大学校は、東京大学校とともに帝国大学に包含されることとなった。

 これに先立って、14年、文部省は浅草・蔵前に東京職工学校を設立した。設立趣意書によると「防貧教育、徒弟教育の改善、模範的工業経営の指示、日本工業の振興、模範的職工学校の例示、全国職工学校の教員養成」などが挙げられている。

 趣意書を素直に読めば、ブルーカラーたる現場技術者の養成機関のように思われるが、実際は「日本工業教育の先達者を養成すべき工業専門学校」であった。この学校は「帝国大学令」の公布に伴い、明治19年、帝国大学の付属下におかれたが、20年ふたたび独立して、23年3月、東京工業学校と改称され、34年5月、東京高等工業学校となった。現在の東京工業大学である。

 この間、高度の専門技術者の養成と並行して、実業家、法律家などを養成する教育機関が産業関係各省の管轄のもとに設立された。内務省の勧業農事修学場1)、農商務省の商法講習所2)、北海道の開拓にあたった開拓使の開拓使仮学校3)などがそれだ。

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 こうした高等教育制度の整備で、わが国は産業界のリーダーを自前で養成することが可能になり、人材育成の面での自主独立が達成されることとなった。

  • 1)勧業農事修学場 駒場農学校、東京教育大学を経て、現在の筑波大学。
  • 2)商法講習所 東京商業学校、東京高等商業学校を経て、現在の一橋大学。
  • 3)開拓使仮学校 札幌農学校を経て、現在の北海道大学。
 
●工手不足の産業界

 相次ぐ高等教育機関の設立で、専門的な知識と技術を習得した若い人材が次々と養成されていったが、いかんせん、絶対数が足りなかった。たとえば、帝国大学工科大学の卒業生は、明治21年(1888)には35名にすぎない。工部大学校時代からの10年間(12年〜21年)を通しても291名である1)
専門的な高等技術者の絶対数も不足していたが、より深刻だったのは、「工手」不足である。
工手とは現在では死語となったが、本校の創立者渡辺洪基によると「将を助け、卒を導く下士官」ということになる。
要するに、生産現場における専門的な技術者、管理者で、これが圧倒的に足りなかった。その結果どういう状況が現出していたのか。本校の4代目校長、石橋絢彦は『工業ト社会』(昭和3年6月号)で次のように回想している。
「当時、理学士、工学士級の技術家400〜500名に対する補助手の不足なるを慨嘆せり。当時画家を写図手に充て、大工を建築の監督に充て、土方を鉄道の監督に充て、和算家を測量手に採用する如き状景にて、技手分業の勢いなり。その多くは原書を読み得ず、公式の利用を知らず」
画家が設計図を写し、大工や土工が現場を監督し、和算家がソロバン片手に測量をしていたのである。専門技術者の図面を読み、現場労働者を指揮・監督する補助士、すなわち、工手がいなかった。にもかかわらず、これを養成する教育機関は一校も設けられていない、というのが明治10年代の現実であった2)

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1)帝国大学工科大学(現東京大学工学部)全科の卒業生
明治(年) 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21
人数 23 40 38 35 35 22 18 26 19 35
2)東京における明治時代の工学校の開校年月日
  • 私立攻玉社 明治12年12月。開校当初は測量術を教授するだけであったが、21年、土木技手の養成学校となり、34年12月に攻玉社工学校となって、土木科、建築科を設け、後に攻玉社高等学校および短期大学となって現在にいたる。
  • 私立東京物理学校 明治14年(現在の東京理科大学)。
  • 東京職工学校 明治14年5月。23年、東京工業学校、34年、東京高等工業学校、昭和4年、東京工業大学となる。
  • 商工徒弟講習所 明治19年1月。東京商業学校(現在の一橋大学)に付設された木工科であったが、23年、商工徒弟講習所職工科となり、ついで東京高等工芸学校の付属となり、高等工芸学校が千葉大学工学部に合併された後、ふたたび東京工業大学の付属となって現在にいたる。
  • 官立電信修技学校 明治19年4月。20年に東京電信学校、23年に東京郵便電信学校、38年、通信官吏練習所、42年、逓信官吏練習所になり、昭和20年の終戦でいったん廃校。その後、郵政職員研修所、東京電気通信学園として復活した。
  • 私立工手学校 明治20年10月。
  • 東京高等工業学校付設工業教員養成所付属工業補修学校 明治32年5月。現在の東京工業大学付属工業高等学校。
  • 東京府立職工学校 明治32年11月。後に府立実科工業学校となり、ついで東京都立隅田工業高等学校となり、現在にいたる。
  • 私立東京商工学校 明治36年4月。
  • 東京府立工芸学校 明治39年6月。現在の東京都立工芸高等学校。
  • 私立電機学校 明治40年9月。現在の東京電機大学学園。
  • 私立東京工科学校 明治40年12月。現在の日本工業大学学園。
  • 私立早稲田工手学校 明治40年4月。後に早稲田大学工業高等学校となるも現在は廃校。
 

学校創立に向けて

●工手学校創立協議会開かれる
私立学校設置願

私立学校設置願

 一つの革新的な技術革新は、産業構造を一変させ、それに伴い新しい技術者集団を創出する。
たとえば、1970〜1980年代の半導体の技術革新は、情報化社会を現出させ、情報処理技術者という新しい技術者集団を創出した。同じようなことが、明治20年代に起ころうとしていた。

 文明開化によって、わが国は欧米先進諸国の工業技術を積極的に導入し、富国の基礎となる工業化に取り組ん だ。工業界のリーダーを養成すべき教育機関の整備も行ってきた。

 しかし、時代がいちばん必要としていた工業化の中核を担う技術者の養成は、後手に回っていたのである。当時の技術者教育制度は、頭でっかちであった。そして、これが明治20年代のわが国の産業の大きなアキレス腱となっていた。

 この現状を深く憂慮していたのが、時の帝国大学総長渡辺洪基である。年来、渡辺は「わが国の産業が発展するためには、工手の養成が急務である」ことを口にしていたのだが、このことを、工科大学教授辰野金吾に諮ったところが、辰野もこれに全面的に賛同し、辰野は明治20年(1887)10月10日の工学会常議員会で、工手学校の設立案を提案した。工学会とは、現在の日本工学会の前身で、当時の気鋭の工学者を網羅した学会であった。

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この辰野の提案は、満場一致の賛同を得て、10月31日、工手学校創立協議会が開かれた。本学園はこの日をもって、創立記念日と定めている。中堅技術者養成の教育機関のさきがけをなす私立工手学校の設立が宣言されたのである。

 
●創立者の中心、渡辺洪基

 ところで、本学園の創立者渡辺洪基は、弘化4年(1847)、越前(福井県)武生に生まれた。生家は代々の医家である。

渡辺洪基

渡辺洪基

 渡辺は医者を志し、まず蘭学を学んだ。文久3年(1863)、16歳になった渡辺は、一時下総(千葉県)の佐倉に行き、佐藤尚中について理学を学んだ。佐藤は、順天堂大学の基礎を築いた学者である。その後江戸に出て、慶應義塾で英学を修め、慶応3年(1867)、幕府に召されて西洋医学所の句読師となった。

 福井藩が開明的であったことも幸いして、渡辺は若年のころから洋学に志し、幕府崩壊1年前の慶応3年には、20歳にして洋学の最高学府ともいうべき西洋医学所に身をおいたわけである。

  こうした渡辺の履歴は、維新後に大いに威力を発揮することになる。明治3年(1870)、外務省大録に任ぜられ、以後外務官僚としての道を歩くことになるが、その後累進し外務大書記官となり、15年に元老院議員、17年に工部小輔、18年に東京府知事、そして19年には38歳の若さで帝国大学の総長の要職に就いた。そして、その翌年の20年、工手学校の創立が企図されるわけである。

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 その後、23年5月、特命全権公使としてオーストリアに駐箚、25年に帰国し、東京府から選ばれ衆議院議員となり、30年には貴族院議員に勅選され、錦鶏間祗候を仰せつけられた。
この間、34年にその職を辞するまでの13年間、特選管理長として、工手学校の発展に尽力し、34年5月24日、55歳をもってその多彩な生涯を閉じた。

●「設立趣意書」を発表

 こうして渡辺洪基を創立委員長にして、設立趣意書を発表し、発起人として創立協議会出席の当時の工科大学の教授、助教授たち14名が名前を連ねた。その顔ぶれは次の通りである。

石橋絢彦(土木) 藤本寿吉(造家) 大井才太郎(電気)
杉村次郎(鉱山) 中野初子(電気) 巌谷立太郎(鉱山)
古市公威(土木) 中村貞吉(化学) 水上彦太郎(機械)
山口準之助(土木) 井口在屋(機械) 三好晋六郎(造船)
辰野金吾(造家) 栗本 廉(鉱山)  
 

 学科は、土木、機械、電工、造家(建築)、造船、採鉱、冶金、製造舎密(化学)の8学科と定めたが、学科数の多いことは注目に値する。
授業は、生徒の素養の関係で全科目日本語とし、夜間授業であった。各学科の修業年限は1年半。これを3期に分け、毎学期は5か月とし、第1学期を予科、第2学期以上を本科とするものであった。

藤本寿吉

藤本寿吉

杉村次郎

杉村次郎

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工手学校設立趣意書

 工業の隆盛を謀るには、学術の応用極めて緊要なり。現今我国の工業稍々隆盛の機運に向ひ、鉄道敷設、鉱山採掘、其他造船、建築、電気、舎密製造等数多の事業国内各所に興起し、是等の事業に必須なる技術者を要すること頗る多きに至りしは、畢竟工業は応用を俟て始て完成の結果を得べきが故なり。
而るに今我国の有様にては、技術者養成の学塾甚だ尠く、一二官立学校に於ては、高尚なる技師を養成するに充分なるも、各専門技師の補助たるべき工手を養成する学校に至りては、亦一校の設置あるなし。故に工業家に於ては、補助工手の供給なきに苦しみ、勢ひ学術応用の思想に乏しき者を以て、彼の高尚なる技師の補助と為さざる得ず。為に技師は使役に不便を感ずるのみならず、結局、工業家の不利益を来すものにて、即ち我国工業進歩の一大障碍を与ふるものと云ふべし。是れ余輩の最も遺憾とする所なり。
因て茲に一の工業学校を設立し、学科を土木、機械、電工、造家、造船、採鉱、冶金、製造舎密の八学科に分ち、世間有志の子弟又は昼間各工場に使雇せらるる工手、職工等に就学を許し、授業方法は専ら速成を旨とし、所謂補助工手を養成し、以て我国工業の隆盛を企図す。茲に聊か記して本校設立の趣旨を陳ると云爾。

 この設立趣意書からも明らかなように、工手学校は短期間に現場で役に立つ知識と技術を身につけさせることをねらい、すでに工場などで働く勤労青少年をも生徒として受け入れる実戦力養成の学校であった。

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●若き俊英を集めた創立メンバー
中村貞吉

中村貞吉

辰野金吾

辰野金吾

中野初子

中野初子

 実戦力の速修を掲げてスタートした工手学校に対する産業界の期待は大きなものであったが、ここでもう一つ見逃せないのは、創立メンバーの豪華さと若さであろう。

 創立委員長となった渡辺洪基は、さきに述べた通り当時の帝国大学の総長で、もっとも著名な学者の一人であった。後に特命全権大使を経て貴族院議員としても活躍し、どんな人名事典にも掲げられている明治の大立者である。

  渡辺のもとに馳せ参じたのが、帝国大学の若き俊英たちである。渡辺が最初に学校創立の計画を諮った辰野金吾1)は、東京駅、日本銀行本店(旧館)の設計で知られる明治時代のナンバーワンの建築家である。

 弱冠29歳で初代校長となった中村貞吉2)は、学殖、人格ともに超一流の化学者。4代目校長、石橋絢彦は、日本最初の鉄筋コンクリート橋、横浜の「かねの橋」の工事指導で知られている。

 井口在屋3)は「ゐのくち式渦の間付渦巻ポンプ」の考案者として有名だ。

 工手学校に参集した教授陣は、その華麗なキャリアもさることながら、時代を反映してなによりも若かった。

 創立委員長の渡辺洪基が38歳である。辰野金吾33歳、古市公威33歳、石橋絢彦35歳、井口在屋31歳、中野初子28歳4)、巌谷立太郎5)30歳、大井才太郎31歳である。

 明治という時代の撥溂さ、そして情熱が伝わってくるようだが、工手学校に対する期待と信頼はこうした錚々たる教授陣に支えられていた、といっても過言ではなかった。

 また、純粋な私立学校なのに、官立学校的なイメージが強かったのも、創立メンバーに現役の帝国大学の教授陣が名を連ねたことと、無縁ではない。

巌谷立太郎

巌谷立太郎

井口在屋

井口在屋

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  • 1)辰野金吾 安政元年(1854)、肥前唐津藩生まれ。明治6年(1873)、工学寮に入学。12年造家学研究のためヨーロッパに留学。16年、帰朝して工部大学校教授、工学博士。19年、帝国大学教授。35年、東京についで大阪に建築事務所を開き、建築実務家として活躍。日本銀行(旧館)、東京駅舎の設計で有名。大正8年(1919)3月死去。
  • 2)中村貞吉 安政5年(1858)、三河豊橋藩生まれ。明治6年(1873)、工学寮に入り、舎密学(化学)を修め、12年工部大学校を卒業。18年、舎密学研究のためイギリスに留学、19年、帰朝して農商務省技師に任用される。20年、工手学校設立時の創立委員として参与し、初代校長に推挙された。24年、病のため官を辞したが、なお本校の校長の職にとどまり、翌年7月、病があつくなったためこれを辞し、明治28年7月38歳で死去。
  • 3)井口在屋 安政3年(1856)、加賀生まれ。明治15年(1882)、工部大学校機械科を卒業。同年、同校の助教授に任ぜられ、海軍機関学校、海軍大学校の教官を歴任。27年、ヨーロッパに留学し、帰朝後、帝国大学教授に。32年、工学博士を得、42年には帝国学士院会員に推された。大正12年(1923)3月死去。
  • 4)中野初子 安政6年(1859)、肥前小城藩生まれ。明治14年(1881)、工部大学校電気工学科を卒業し、19年、帝国大学助教授に任ぜられ、21年、米国に留学。後にヨーロッパに渡り、米国で学位を獲得。34年、帰朝して帝国大学教授に。桜岡、また新渓と号して、詩文のたしなみもあった。大正3年(1914)3月死去。
  • 5)巌谷立太郎 安政4年(1857)、近江の生まれ。明治3年(1870)、貢進生として大学南校に入学して、普通学を学び、10年、鉱山学修行のためドイツに留学。14年に帰朝し、19年、帝国大学教授に任ぜられ、農商務省技師を兼ねた。21年、工学博士を得た。明治24年1月死去。なお、童話作家で有名な巌谷小波は、立太郎の実弟である。
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以上は、工学院大学の前身である「工手学校」が創立された当時の詳細情報です。
〔2005年4月8日アップ〕

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