第二章 再生と発展期

戦時下富士山演習

戦時下の工学院

昭和13年、本学は創立50周年を迎えました。10月の創立記念式典では、本学設立の提唱者であり、数々の試練を支えてきた最大の功労者、渡邊洪基、古市公威、両先生の胸像除幕式がおこなわれました。この青銅製の胸像は、戦時供出の危機と戦禍をくぐりぬけ、現在も新宿アトリウムに設置されています。この他、50周年記念事業では、校舎増築、実験室の拡充、エレベーター設置がおこなわれました。

しかし、国内外情勢は戦時体制へ向かっている時代にあり、本学も日に日に戦時色が色濃くなってゆきます。太平洋戦争開戦以降、昭和17年には学生による報国隊が組織され、各作業場、陸軍兵器補給廠、工場へ勤労動員が続き、勉学に勤しむ環境からは次第に遠のいてゆきます。国内の工業生産は統制下となり、特に軍需直結する、鉄鋼、金属、造船、航空機製造は、増強に重点が置かれ、これらに従事する人材確保は国家命題でした。昭和19年、工業技術者の大量育成という時勢から、本学に工学院工業専門学校(旧制)が開設されました。

国内大都市は戦禍に化し、昭和20年3月10日の東京大空襲では、多くの尊い命が奪われました。本学は東京大空襲の被災は免れましたが、5月26日の空襲で、新宿校舎に被害を受けました。学校日誌には、こう書かれています。

「昨夜より本暁にかけて、また敵機250機、帝都来襲、新宿付近も相当被害あり。同窓会館および実験室焼失するも、本館は無事。新宿付近にて本校のほか、2、3の建物のみ焼け野原に健在す」 校舎一部を焼失したものの、鉄筋コンクリート造の新宿校舎本館は、懸命の消火活動のもと戦火をくぐり抜けました。当時、勤労動員で学生は少なく、校舎の一部は、軍の防空指令部、軍隊駐屯、物資集積所として利用され、焼け出された近隣罹災者の避難も受け入れました。そして、昭和20年8月15日、終戦を迎えました。

昭和28年頃の新宿校舎

新制 工学院大学の開学

戦後、焦土の中からの学園再生は想像を絶する苦難の道のりでしたが、工場に動員されていた学生が徐々に復帰し、驚くべきことに終戦からわずか1カ月後の9月中旬には授業再開に至っています。

昭和22年には、教育基本法、学校教育法からなる学制改革がおこなわれ、従来の日本の教育システムから大きな変革がおこなわれました。新しい教育システムである6・3・3・4制に沿って、当時の設置校である工学院本科、工業専門学校、工業学校が、それぞれ新学制に改められました。大学が開学するまでの過程は、戦後の混乱や資金的な課題など平坦ではありませんでしたが、大学開設に懸けた関係者の努力が実り、昭和24年、旧制工業専門学校は新制大学へと昇格、工学院大学が開学しました。

新宿校舎講堂

工作室(昭和33年)

大学設置認可申請書には「工業の実地に直接役立つ技術者を育成する事を特色とする」としています。これは工手學校創設以来の建学精神であり、現代の私たちが引き継ぐ「工の精神」にある根幹の姿勢といえます。戦後混乱期の困難な時代をへて、国内経済が回復してくるのに合わせ、入学志願者数は増加し、学園経営も安定してゆきます。大学開学当初は、機械工学科、工業化学科の2学科からのスタートでしたが、昭和30年に電気工学科、建築学科を設置し、新宿校舎の増築増床や都下郊外にグラウンドを確保するなど学園設備の拡充がはかられました。

以降、様々な改編、コース新設を伴いながら、新宿校舎新館の建設、設備の拡充がはかられてゆきます。現在につながる学園祭や学生自治会クラブ活動、大学後援会は昭和25年から始まり、翌26年には大学校友会が結成されました。学生クラブ活動は年々活性化し、昭和30年代に入る頃には「全日本スクーターラリー」優勝など全国レベルの活躍もみられました。

8階建新館校舎竣工時の淀橋校舎(昭和36年)

戦中・戦後混乱の復興期から一転し、産業界の回復にともない、国内工業、鉄鋼、造船、石油化学等の重化学工業は、設備投資が盛んになり、理工系の技術者の需要が一気に高まりました。この時代背景の中、工手學校創設来の卒業生の活躍と相まって、工科系単科大学である本学への声望は高まり、志願者が急増、躍進しました。

昭和40年頃の八王子校舎

八王子校舎開設

昭和37年、創立75周年を迎え、工手學校以来の卒業生は4万人を超えました。産業界の本学への期待、高度経済成長期の大学進学率の上昇、戦後ベビーブーム世代の大学進学期を迎えた時代背景もあり、志願者数は急増し、これからの工学院大学の発展には、より広い学修環境の整備が必要となりました。学園中期経営計画にあたる新5か年計画で大学院開設と学科増設、受け皿としての八王子校舎の計画が策定され、1,2年生は八王子、3,4年生と大学院生は新宿で学ぶ構想が画かれました。昭和38年、現在では20を超える大学がキャンパスを擁する学園都市八王子に、郊外型キャンパスの先駆けとして八王子校舎開設しました。

昭和39年、工学院大学修士課程を設置。続いて昭和41年には、私立工科系単科大学で初めて博士課程を設置しました。博士課程の設置は、その大学が充分な施設・設備と研究能力の高い優秀な教授陣容を有することが証明されたことを意味すると初代学長 野口尚一は回想しています。

昭和40年代に社会現象になった学生運動は、本学にも影響しました。全学闘争委員会が八王子校舎1号館をバリケード封鎖するなど過激な交渉でしたが、大学側との対話がもたれ、大きなけが人もなく封鎖は解除されました。学生による無期限ストライキが実施されたこともありました。忍耐強く対話を続ける事により徐々に活動は沈静化し、およそ10年の時を経て大学内は平穏を取り戻しました。

旧八王子図書館 閲覧室

富士吉田セミナー校舎

昭和55年、フィンランドの著名建築家 アアルトに薫陶を受けた建築学科教授 武藤章が設計した「青空がある限り自然光で読書ができるように」というコンセプトの、斬新な八王子図書館が完成。建築界の話題を呼びました。この図書館は、学生教職員の憩いの場・学びの場として、広く愛されました。
キャンパス整備のほか、学生厚生施設やサークル活動設備も刷新されました。昭和32年から増築を繰返していた軽井沢学寮が、後援会の資金援助を得て改築。伸びやかな森の中の学寮が完成しました。昭和56年、創立90周年事業として、波多江健郎建築学科教授の設計で富士吉田セミナー校舎がオープン。富士山を借景とした、和風鉄筋コンクリート造の優雅な建物で、夏場の学生活動の拠点として大いに活用されました。

昭和60年代の八王子校舎

昭和30年代から50年代にかけては、学科・コースの新設にともなう学生数の増加、キャンパスの拡充・教育研究設備の充実化が着実に進められ、それらは現在でも活用され続けているものや礎を築いた、工学院大学の基盤がしっかりと形づくられた時代となりました。

昭和50年代半ばの新宿校舎

新しい新宿キャンパス

学生運動から静寂を取り戻した昭和54年頃から、学園はこれからの将来構想を検討し始めました。新宿校舎が位置する新宿駅西口周辺は、本学が移転してきた戦前の環境とは様変わりし、昭和40年の淀橋浄水場の移転にともない、跡地利用の新宿副都心計画がプランされるまでに至り、東京の新たな中心地のひとつとして再開発が進められました。近隣には京王プラザホテル、住友ビル、野村ビルをはじめ、高さ100mを越える超高層ビルが連なるオフィス街が誕生しました。新宿校舎は昭和36年に本館校舎の東面に8階建て新館校舎を竣工し、環境整備をおこなってきましたが、関東大震災直後に建設された本館の老朽化に加え、増加する学生数に対応する上で校舎全体が手狭となり、今後の在り方が重要課題となっていました。

授業を行いながら建築が進む新宿校舎高層棟

そのような中、当時の政府は都心部大学の郊外移転を推進しており、工学院大学も新宿校舎を移転するか、存続かの決断が迫られていました。

度重なる議論と検討の中、伊藤鄭爾学長は「都心型学園」というキーワードのもとで、この新宿の地にキャンパスがあることの重要性を訴え、新宿校舎の再開発に向けて動き出します。伊藤は「学園だけがキャンパスではない、新宿全体がキャンパスである」と捉え、地の利を活かしたコンセプトを創出しました。昭和56年に都市計画の専門家である高山英華が理事長に着任し、新宿副都心にある大学として、周辺の街並みと同様に高層ビル型のキャンパスとして再開発を目指す決断をしました。

新宿校舎完成を伝える新聞記事(1989年7月26日 読売新聞)

新宿校舎完成を伝える新聞記事の拡大図(1989年7月26日 読売新聞)

昭和62年10月、工学院大学は創立100周年の節目を迎えました。228名の入学生でスタートした工手學校は100年の歴史を経て、約8,000人の学生・生徒が在籍し、5万人以上の卒業生を輩出する学園になりました。記念式典が京王プラザホテルで盛大に挙行される中、創立来最大事業となる新宿キャンパス高層ビルの新築工事は急ピッチで進められ、仮転居を伴わず旧校舎で授業を行いながらの工事を着々と進めていました。平成元年、大学棟(地上29階、地下6階)が竣工、日本初の超高層ビルの大学校舎となる新宿キャンパスが誕生しました。地上高133mは大学単独の施設では日本一を誇り、新聞紙面でも話題となりました。

平成4年、中層棟(8階建)とオフィス棟エステック情報ビル(28階建)が竣工。平成7年、エステック広場が完成し、現在の新宿キャンパスの姿となりました。

平成元年 新宿キャンパス高層棟竣工