工学院大学を支えた人物

渡邊洪基

渡邊洪基(ひろもと)。越前(福井県)武生に生まれる。漢学・蘭学を修め福沢諭吉の塾、後の慶應義塾に学ぶ。明治3年外務省入省。岩倉使節団に随行し渡米。さらにオーストリアに駐在し、欧米諸国の姿をいち早くとらえる。18年に東京府知事就任、33年には貴族院議員など、官政界キャリアを重ねる。教育者としては、学習院次長、19年には帝国大学(現在の東京大学)創設と共に初代総長に就任した。明治20年10月31日、建築家 辰野金吾の協力を得て「工手學校創立協議会」を開催。日本の近代工業化の中核を担う、実践的技術者を育成するという渡邊の志に賛同した14人の工業界の新進気鋭リーダーたちによって、創立委員会が結成された。工学院大学の創立記念日は、この日を記念して定めている。創立以来、明治34年に辞するまで工手學校特選管理長として工手學校の発展に多大な軌跡を残した。渡邊は、欧米諸国での豊富な知見を活かして、東京地学協会、東京統計協会、大倉商業学校など、現在につながる数多くの学会、教育機関の設立に関与する。この経歴から、明治黎明期の国家プランナーと称される。

辰野金吾

辰野金吾。肥前(佐賀県)唐津藩に生まれる。東京駅舎や日本銀行本店(旧館)などを設計し、明治・大正期の建築界のパイオニアとして活躍し、日本建築史上にその名をとどめている。渡邊洪基とともに工手學校の創立に尽力した。「辰野堅固」と呼ばれるほど規律を重んじる人物であった。

古市公威

古市公威。江戸に生まれる。パリ大学十傑に数えられるほどの英才ぶりを発揮。帰国後、工手學校の教員を手配している。工手養成学校の設立構想は、古市の知見も参考になっている。近代日本の土木技術の最高権威とされた。

中村貞吉

中村貞吉。三河豊橋藩に生まれる。慶應義塾で英語を学び、工学寮で化学を修めた。化学研究のためにイギリスに留学。
29歳の若さで工手學校初代校長に。年功序列重視の時代に、若手登用の人選は、工手學校の進取の気概がうかがえる。福沢諭吉の長女里と結婚している。

渋沢栄一。渋沢は社会の担い手となる人材育成、教育事業にも尽力し、工手學校設立時からのつながりと深い絆がある。

1887年(明治20年)
渡邊洪基らが工手學校設立趣意書が発表されると渋沢は賛同し工手學校賛助員に名を連ね、設立準備の寄付に応じた。翌年、工手學校は築地校舎でスタートした。その新校舎のお披露目式に、榎本武揚とともに列席し、渋沢栄一は祝辞を述べている。

1896年(明治29年)
卒業式の夜、失火により築地校舎は全焼した。この時、渋沢は、再建に向けて400円の寄付をした。夏目漱石が松山中学校に赴任した時の月給が80円の時代である。この火災時、皇室から500円の御下賜金を賜った。工手學校にとって、まさに天祐であった。

1913年(大正2年)
工手學校創立25年記念式典が、明治天皇の崩御により1年延期して挙行された。出席した渋沢の祝辞は、朗々として会場の隅々まで届き、聴衆は感銘を受けたという。

1928年(昭和3年)
関東大震災後、築地校舎を失い、新宿の日本中学での仮校舎での再建から、新校地を新宿に決めて淀橋校舎が完成した。新校舎で行われた第80回卒業式、渋沢は来賓として訓話を述べた。同年、卒業生の強い要望により校名が「工学院」へ改称された。 渋沢は、工学院の顧問となった。