反骨心と挑戦する精神が、自らの人生を押し進めると信じる

LIGHTDESIGN 代表

照明デザイナー

東海林 弘靖

1984年 建築学専攻修士課程修了

#KUTE VOICE

  • #活躍する卒業生
  • #建築系

照明デザイナーとして第一線で活躍し、大阪・関西万博の照明デザインディレクターも務める東海林弘靖氏。実務の傍ら、「光の伝道師」として、多くの人に光が生み出す世界観や照明の魅力を伝えるべく活動している。工学院大学大学院で建築・設計を学んだ東海林氏が、当時はまだ珍しかった「照明デザイナー」という仕事に出会い、奮闘しながら道を拓いてきたプロセスを追った。

 

自然の光と調和する、
時と共に変わりゆく光を演出する

二子玉川ライズ、MIKIMOTO Ginza 2といった大型の商業建築物から、レストラン、美術館、図書館、さらにはNICUなどの特殊医療空間まで、光を使って空間をデザインし、そこに流れる時間が人間にどう寄り添うことができるかを自ら問い、光環境を創出してきた東海林氏。

二子玉川ライズ
©TOSHIO KANEKO

MIKIMOTO Ginza 2
©︎TOSHIO KANEKO

大阪・関西万博では、会場デザインプロデューサーである建築家・藤本壮介氏から声をかけられ、万博のシンボルである大屋根リングの照明のほか、会場全体の照明デザインのディレクションを務め、ガイドラインを策定するなど重要な役割を担った。

「大阪・関西万博では、真ん中にある静けさの森とその周辺、さらにはウォータープラザの辺りは暗めのクワイエットゾーン、そして、人が集まる広場では明るいエモーショナルゾーン…といったように、光の区画を整理しました。万博のコンセプトである“いのち輝く未来社会のデザイン”をベースに、限りあるエネルギーに感謝して大切に使おう、美しい夜空とハーモナイズする地上の光を灯そうというメッセージを込めて、全体のルールも含めてデザイン監修をしていきました」


こだわったのが、自然の光と調和する、時と共に変わりゆく光を演出すること。「その空間に身を置く人に、4次元の光の魅力を感じ取ってほしい」と言う。

「太陽の光は、朝は白く、昼間は青白く、夕方にはオレンジになり、薄暮にはブルーになる…というように、1日の中でも刻々と変化していきます。本来、光は時と共に変わりゆくものなのに、人工照明では一定の明るさで灯されている場所が大部分を占めていました。これって不自然ですよね。光によって時の移ろいを感じてもらえるような演出がしたいと考え、大屋根リングの照明は時間に合わせて明るさや色調を変化させ、日没後の大自然のブルーモメントを楽しみつつ、人工光による演出も一緒に楽しめるようにデザインしています」

万博会場を照らす照明
©︎AKITO GOTO

この4次元で光を創出する照明手法は、レストランの照明に取り入れたこともある。2時間ほどのフルコースを堪能する間、最初は明るかった照明を徐々に光の重心バランスを変えながら照度を落としていくのだ。「人間の目は明るさや暗さに順応するようにできている。気づけばすっかりほの明かりの空間で、気持ちが解けていく。日々の暮らしの中で、人をワクワクさせたりリラックスさせたりできるのが、照明の魅力」と東海林氏は語る。

建築家を志した学生時代。
尊敬する師のもとで 学ぶべく、工学院大学へ

照明デザイナーとして第一線で活躍する東海林氏だが、学生時代までは建築家を志していた。小学生の頃に建築や設計に興味をもち、高校時代は建築関係の書籍を読み漁った。そこでのちの師となる伊藤ていじ氏の書籍と出会い、「この人のもとで学びたい」と一念発起。生まれ育った福島から上京し、伊藤ていじ氏が教授(学長および理事長を歴任)を務めていた工学院大学に入学した。

「当時は、建築の巨匠になる、と意気込んでいましたね。建築家の白井晟一氏の書籍を読んで、建築をやるなら哲学的な思想や芸術論も必要だと感化されて。工学院大学で建築を学ぶ傍ら、東京都立大学の夜間クラスで一般教養の授業を受けたりもしていました」

3年次には念願叶って伊藤研究室に配属となり、大学院修了まで指導を受けた。今は亡き師について、「過去を知り、未来を見通すことのできる大きな人間力をもつ方だった」と振り返る。

「伊藤先生を慕って、著名な建築家や芸術家などいろんな方々が研究室を訪ねてきました。狭い部屋でしたが、洗練されたインテリアの空間で、大学らしからぬほの暗くサロンのような空間でしたね。伊藤先生は既成概念にとらわれず、独自の視点で物事を捉えられる方で、私はその姿勢がとても好きでした。常々、やるなら超一流のことをやれ、とおっしゃっていたのも印象的です。伊藤先生の精神や教えは、みんながやらないニッチなことをとことん突き詰めようという私のスタンスに、大きく影響していると思います」

建築照明と出会い、
恩師の言葉を胸に 照明デザイナーの道へ

大学院時代はなんとか建築家になりたいと、著名な建築家の足跡を分析して「どうしたら建築家になれるか」を研究した時期もあったと言う東海林氏。しかし、転機は突然やってきた。

「1982年に竣工した新宿NSビルで、クロード・エンゲルというアメリカの照明デザイナーと日本のTLヤマギワ研究所がコラボレーションして、日本で初めて建築照明デザインが施された、という記事を建築雑誌で読んだんです。そのとき、これだ、とビビッと来て。まだほとんど誰もやっていない建築照明という領域に詳しい建築家になろう、自分はこの道で行こうと決めました。居ても立ってもいられず、TLヤマギワ研究所に思いをしたためた手紙を送ったところ、面接の機会をいただくことになりました」

決定打となったのが、面接に臨んだ際にTLヤマギワ研究所の所長に言われた、「自分たちは光の伝道師なんだ」という言葉だった。ここから東海林氏は、光の魅力に取り憑かれることになる。

「当時、40代くらいだったTLヤマギワ研究所の所長が、真剣な顔で、人々に光の魅力を伝えるのが自分たちの仕事なんだ、光は人と幸せにしたり元気にしたりワクワクさせたりできるものなんだと熱弁する姿を見て、かっこいい大人だなと思ったんです。自分も照明デザインをやりたいと強く思い、TLヤマギワ研究所への入社を決意。伊藤先生に報告に行きました。先生からは、決めたからには超一流になれ、諦めずに10年はやれ、でも、10年やって芽が出なければやめろ、と言われたのをよく覚えています」

自然界の光に学んだ
心を解き放つ “美しい暗さ”

TLヤマギワ研究所には6年あまり勤め、照明技術を基礎から学んだ。その間、槇文彦氏、伊東豊雄氏、内井昭蔵氏、原広司氏などの建築家の照明コンサルタントとして従事。実績を積んでいった。その後、先輩社員である面出薫氏らと共にライティングプランナーズアソシエーツを設立。面出氏の片腕として、数々の建築照明を担当した。そしてこの頃から、光との出会いを求めて、世界中を旅するようになった。

「10年ほど建築照明をやっていると、照明や光のことがそれなりにわかってきます。でも、あらためて考えたときに、光がどういうときに人に勇気を与えたり、人を癒したりするのか、本質はよくわからないままだなと気づいたんです。そこで、自然界の美しく感動的な光に何かヒントがあるのではないか、まずは地球上の光を自分自身で感じてみたい、そう考え、いろいろなところに足を運ぶようになりました」

アラスカで見た壮大なオーロラ、サハラ砂漠の驚くほど明るい月夜、パプアニューギニアの奥地で出会ったヤシの実のオイルランプのほのかな光…。世界各地で数々の自然の光に出会うなかで、東海林氏はその偉大さに心揺さぶられると同時に、「照明は単に明るさを作るものではなく、人間の命のシンボルであり、勇気をくれる存在である、という確信を得た」と言う。

「現代社会における照明は、明るすぎるんですよね。私は以前からそう感じていたのですが、明るいほうがいいという固定観念が根強くて、クライアントに明るさを抑えた光環境を提案すると却下されることが多々ありました。悶々とした思いを抱えるなか、旅先で出会った光の明るさを測ったところ、サハラ砂漠でもパプアニューギニアでも0.5ルクスに満たない光が不安のない光環境をつくっているのでした。人間の目が順応して、低い照度でも十分に明るさを感じました。そして何より、なんだか心地がよく、心が解き放たれる感じがしたんです。もちろん、実際のデザインの中では、必要に応じて高照度に設定する場合もありますが、どこもかしこも強い光を用いる必要はありません。自然界から学んだ“美しい暗さ”や“自然と調和した光”は、今では照明デザイナーとしての私のポリシーとなっています」

大事なのは、自分の強みを確立すること

東海林氏は、2000年に東京・銀座にLIGHTDESIGNを設立。照明デザイナーとして国内外で活躍する傍ら、「光の伝道師」として、一般向けの書籍や自身のブログなどを通して、光が生み出す世界観や照明の魅力を伝えてきた。自身にとってのブレイクスルーのきっかけは、地球上のあらゆる光を体験し、自信をもつことだったと振り返る。

「自信がないと、つい言い訳をしてしまうんですよね。でも、自分の体験に基づいた光の捉え方・考え方に自信がもてると、使う言葉も説明の仕方も変わってきて、相手にも納得してもらえる。そうすると、自然とおもしろい仕事がめぐってくるというよい循環が生まれました。大事なのは、自分の強みを確立するために努力を惜しまないこと。私の場合は、建築照明というまだほとんど誰もやっていないニッチなところをやるとか、照明は、明るければよしとする世の中に対する反骨心とか、前例がなくても信じる道を進み新しいことをやってやるという挑戦する精神といったものが、自分の強みを確立する柱になったと思っています」

東海林氏がここで挙げたのが、学生時代の恩師である伊藤ていじ氏がある新聞の読書欄で「座右の1冊」として紹介した、『厚黒学』(李宗吾・著)という書籍。中国で発行された原書は発禁になったそうだが、日本では今でも翻訳版が手に入る。

「簡単に言うと、人生、厚かましく腹黒く生きよ、という内容なのですが、私はこれにすごく共感して。大学も会社も肩書きも、自分の人生を楽しむための乗り物に過ぎない。だから、誰かのために、会社のためにと言い訳するのではなく、うまく乗りこなして楽しんだらいいと思うんです。言葉を選ばずに言うと、私は学生時代、大学には何も期待していませんでした。自分で何かを掴み取ってやろう、そんな気でいました。大学になんとかしてもらおう、会社になんとかしてもらおうという受け身の姿勢では、人生は楽しめないんじゃないかと思いますね」

最後に、後輩である学生へのメッセージを伺うと、東海林氏は工学院大学のルーツである「工手学校」に言及し、こう続けた。

「工手学校は、明治期の1887年、初代東京帝国大学総長だった渡邊洪基らによって卓越した技術者を育てるために設立されました。言ってみれば、工業化が進む日本において、エリート層と現場で作業する職人の間に入る実践的技術者「工手」を育成することが目的でした。実際に、工手学校の歴史像を描いた『工手学校』(茅原健・著)でも、学校には、どんな苦労にもくじけず、強い意志をもって立ち向かう“不撓不屈”の建学の精神が息づいていたとされています。 関東大震災や第二次世界大戦といった幾多の困難を乗り越えてきた歴史を持ち、そうした歩みを支えた当時の学生たちは、「負けるもんか」という思いを胸に、昼は働き夜に学ぶ勤労学生としての道を歩んでいました。

「この歴史を知った私は、自分のスタンスと照らし合わせて、知らずとも自分にその血が流れていたことに、ずいぶんと驚いたものです。そんな工学院大学で学ぶ学生の皆さんにも、ぜひ、反骨心をもってほしいと思います。特に近年の建築業界は、コストが制約されクリエイティビティを発揮できる余地が少なくなり、その中で知恵を出さなければならない環境となりつつあります。そうしたなかでも挑戦する精神をもち、誰かが敷いたレールではなく、自ら開拓した道を歩んでほしい、そう願っています」


LIGHTDESIGN
https://www.lightdesign.jp/

著書:『ぜんぶ絵でわかる10照明』
– 照明デザインの楽しさを、絵でわかりやすく解説した一冊。
 光の基礎知識から家庭で実践できる照明術まで、幅広く紹介されています。(2025年08月発行)
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